たしかめるように

たしかめるように。 絶望の淵に立ちなかを覗くと、そこには、当たり前のようにささやかな日常がありました。私は、世界にとって唯の細胞でありたい。

「 ただいま 」


すっかり「暑い、暑い」が口癖となり今日も例外なく呟いていたら、窓の外から涼しい風が流れてきました。
秋が、もうすぐ手の届きそうなところまでやって来たみたいです。いつの間に...

今夜は、背中で秋の気配を感じつつ
先週のある出来事について記したいと思います。
  

わたしは、今年誕生した山の日 から3日間、地元・北九州に帰っていました。

お盆だからでしょうか。
この3日間で、不思議な体験をしました。



JR福間駅から実家近くの駅までは電車で約1時間。
まだ津屋崎に引っ越す前、北九州から津屋崎に通い詰めていた約1ヶ月間ほぼ毎晩 揺られていた帰りの電車時間は、「ふぅ」と安堵する時間でした。

が、なぜだか
山の日のその時間は、
少し胸がソワソワして落ち着きませんでした。


やっと地元の駅に着いて改札を出ると、
商店街やビルの群れ、人の波が一気に飛び込んできます。たった1カ月しか離れてないけど、それでもどこか懐かしい風景のはずでした。

が、なぜだか
晴れた午後のその風景に、
少し目がチカチカして眩暈を覚えました。


夜になり、用事が終わって街を歩いていると
バイト先の常連さんとばったり出会い、そのまま食事にいきました。

マンションやタクシーの光でどこまでも照らされた明るい道を歩いたけれど、なぜか寂しい気持ちになりました。

...そういえば最近、
帰り道には星空を仰ぐことが習慣になってたなぁ〜なんて、頭の片隅で思い出しながら。


そのあと、
布団の中でなかなか重くならない瞼の裏に浮かんだのは、津屋崎に来てからの1カ月半で対話を重ねてきた人たちの顔。
津屋崎にぽっと来た私の言葉にも、耳と心を傾けてくれる人たちの顔。
優しく温かく、受け入れてくれる人たちの顔。

 

わたしは故郷である北九州が、大好きです。
「生まれ育った土地だから」特別な想いがあるし、「ずっと住んできたから」落ち着く街です。なにより、大切な「ひと」がたくさんいます。


けれど山の日、故郷に帰ったとき

「ただいま」という言葉が
胸につっかえたまま
喉からでてきませんでした。

胸の中で「ただいま」が揺らいでいるのが分かりました。

ここで、出ていっていいのだろうか?
どこで、出ていけばいいのだろうか?

ちょっと切ない、葛藤。

 

故郷で素直に「ただいま」を言えないほど、津屋崎の存在が大きくなっているのだと気がつくまでに時間はかかりませんでした。



「住めば都」ということなのだろうか。
いや、それとも「何か」あるのだろうか。

それが「時間」でないことだけは、分かりました。

「住むこと」と「何か」が必ずしもイコールでは在りそうにない今、「ただいま」が心から湧き上がってくる場所がどれほどあるか。

幸せを測れる物差しのひとつが、そこには在るような。




こうして、
「いってきます」から「ただいま」へ
わたしのホームが増えました。


ホーム=家・家庭・故郷
意味自体よりも、その「ほっとする」気持ちに寄り添われている言葉なのだと思います。

 
「ただいま帰りました」って伝えたくなる風景と
「おかえりなさい」って受け入れてくれそうな誰かの顔が想像できれば
そこはもう、自分にとって「ほっとする」場所なんだなぁ〜



小学生の頃、日が沈む際まで遊んで、それでも帰りたくなくてイヤイヤ後ろ髪引かれつつ帰った日。
結局、家の近くまで来ると、はやく玄関を開けたくなっていたことを思い出します。

「帰れる場所」があるから
安心して遊んで、安心して旅ができるんだ。

そんなことも、思いました。



お盆は、たくさんの人たちが
「おかえりなさい」を用意して待ってくれている人のところへ「ただいま」を言いに帰る日。

そんな時期に
「ただいま」に対して揺れ動く、はざまの、奇跡的な瞬間を得られてよかった。


きっと、次からは、
どちらに対しても「ただいま」をすんなりと言える気がしています。


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